好きな曲のベースを、 尊敬するベーシストだと 30年超、勘違いしていました。

📖 ひらつか物語 Part3

☕ 約10分ほどの物語です。よろしければ、ゆったりしたお時間にどうぞ。

勘違いしていた、30年以上も…

まずは、
ひとつ謝らせてください。

今回は、
個人的な趣味である
“音楽” の話 が
中心になります。

聞き慣れない固有名詞も、
たくさん出てくると思います。

正直、
何のことやらという方も
多いと思います。

申し訳ありません。

それでも、
プロフィールで少し触れた
若かれし頃の夢・野望とか、
最後まで読んでいただければ、
ちゃんと葬儀の話にも繋がります。

もう少しだけ、
お付き合いください。

映画『マイケル』に魅せられて

先日、
マイケル・ジャクソンの映画を観ました。

マイケル青年期
アルバム:スリラーの時代のシーンで、
ふと頭をよぎったのは
TOTOの
ギタリスト:スティーヴ・ルカサー
ドラム:ジェフ・ポーカロ、
それにエディ・ヴァン・ヘイレンの名前。

我ながら、
どうでもいい記憶力だけは
無駄に良いんです、こういうとき。

でも、
本当に心が動いたのは別のシーン。

マイケル幼少期
ジャクソン5(ファイブ)の場面でした。

「I Want You Back」
「ABC」
「Never Can Say Goodbye」
「I’ll Be There」
これらの曲
高校時代から、大好きでした。

特に
「I Want You Back」は
何回聴いたか、わかりません。
当時カセットテープの1曲目
聴きすぎてテープ伸びて音程すら
違ってしまっていたはず、

そして、ずっと、
「このベース、
 ジェームス・ジェマーソンなんだよな〜」
と、思って聞いていました。

今はいい時代です。
AIに聞けば、
たいていのことはすぐわかる。

自分が高校生のころなんて、
知りたくても知りようがなかった。

音楽を始めると、
やたらと横文字が出てきました。

たいていの言葉は、
調べればとりあえず理解することが出来た。

「ハーモニー」
「シャープ、フラット」
「シンコペーション」
「スケール」
「オブリガート」などなど…

でも「グルーヴ」だけは、
調べても当時の自分が明確に理解出来る
言葉で表現されたものには
出会えませんでした。
なんとなく「ノリ」のようなこと
なんだろうと思いつつ、
ウヤムヤ感、満載のままでした。

きっと、
そもそも言葉にするのが
難しい類のことなんだと思います。

映画が終わり
ひとり感傷にふける中…

やっぱり
ジャクソン5(ファイブ)の
「I Want You Back」は
最高だったな〜

ベース…
ジェームス・ジェマーソン

気になって、AIに聞いてみると——

違いました(笑)

弾いていたのは、
ウィルトン・フェルダー。

しかも
ベーシストというより
本業サックス奏者

正直、ちょっとショックでした。

高校三年から
アラフィフの今日まで30年以上、
こんな盛大な勘違いを
抱えたまま平気で生きてたのかと。

でも、少し経って気づいたんです。

自分が惹かれていたのは、
「誰が弾いていたか」なんかじゃなかった。

あの音、
あのグルーヴそのものに、
惹かれていただけだった。

名前を、間違えていただけの話。
でも、それでよかったんだと思う。
現にジェームス・ジェマーソンへの
憧れや好感度は1ミリもブレてません。

追いつけないと思った、その日から

中学生の頃、
X JAPANに夢中でした。

当時、人気が急上昇していた
ヘビーメタルバンド。

自分の部屋には、
せっせと新聞配達で得たお小遣いで
買った大きなポスターを貼るくらい
好きでした。

元祖ビジュアル系

母親は
「この子は一体どうなってしまったのか」
と、本気で将来を憂いていたと思います。

バンド=不良、
かっこいい=不良、

そんな空気感があった昭和の時代です。
身の回りのテレビドラマや漫画では
必ずと言ってもよいくらい、
暴力シーンだらけ…

令和の現代では
ほぼコンプライアンス的に
アウトでしょう笑

今思うと、
良くも悪くも時代は変わるもの…
この先も、
きっと、そうなんだろう…と。

消去法で始めたベース

高校に入ると、
軽音楽部に入りました。

きっかけは、単純にギターへの憧れ。

でも、
入部初日に心が折れました。

中学を出たばかりの
齢15才の経験者たちが放つ勢いに、
ただただ、圧倒されました。

今思えば、
あれもグルーヴ
だったのかもしれません。

直感的に思いました。
これ、今から始めて
追いつけるわけがない

早々に諦めるところ、
今も変わってないなと思います。

じゃあどうするか。

答えは単純でした。
やる人が少ない楽器を選ぶ。

それがベースでした。

消去法から始まった青春。
我ながら、締まりのない話。

届かなかった憧れ

ベースを始めてからは、
それなりに夢中でした。

当時、心底憧れていたのは
Mr.BIGのビリーシーンをはじめとする
超絶技巧のベーシストたち。

指が信じられない速さで動く。
音数も多くて、とにかく派手。

必死にコピーしようとしました。

でも、
どうやっても届きませんでした。

まあ、弾けるわけないだろう…とは
薄々わかってはいたんです…
だって、めちゃくちゃ速いんですもの。

もうひとつ、惹かれていた音

一方で、
なぜか気になって仕方ない演奏が
別にありました。

そう
ジャクソン5(ファイブ)を始めとする
モータウン系の音楽です!

「I Want You Back」
「ABC」
「Never Can Say Goodbye」
「I’ll Be There」

派手さはない。
むしろ、地味なくらい。

でも、聴くと
なぜか気持ちがいい。

これ、当時の自分には
うまく言葉にできませんでした。

「グルーヴ」

そういう言葉があることは
知っていました。

でも、それが具体的に
何を指すのか、

言葉にするのが
そもそも難しいことだから

なのか、
教えてくれる人は
周りに誰もいませんでした。

知ったかぶりで
「いいグルーヴだよね」なんて言って、
知ったかぶりもしていました。
今思うと恥ずかしい。

「グルーヴ」
よくわからないまま、
時だけが流れていきました。

高校卒業後、バイトをして

高校を出たあとの進路は、
正直、何も決まっていませんでした。

決まらないというより、
決める気もなかったのかもしれません。

今でも思います。
未成年という保護者の承諾がなくては
何も出来やしない社会的信用ゼロの立場で
未来だけは、しっかり見据えなさい。
そんなハードルの高い話、
今でも恐ろしい…

高校卒業後、
進路未確定の自分は
一先ずバイトをしました。
実家暮らしは本当にお金が貯まります。
そりゃあ
家賃や電気ガス水道、食費まで
1円も納めず
親のお世話になっているのです。

そうして
初めて自分の集めた福沢諭吉さん
20人近くで
プレシジョンベースを買いました。

憧れの
ジェームス・ジェマーソンも
同じタイプのプレシジョンベースを
弾いていたことを知っていたから。

ちなみに
ジェームス・ジェマーソンの名演で知られる
マービン・ゲイの What’s Going On で
使用されたタイプなベースです。

もちろん、同じモデルとかではありません。
当然、廉価版のレプリカです。それでも10代の少年には高級品でした。
⇒こういう時だけ都合よく少年(笑)

嬉しくて、
早速鳴らしてみたんですが……

どうも、思うような音が出ない。

そのとき、
ベースを教えてもらっていた師匠が、
「ちょっと貸してみ」と言って、
私のベースを少しだけ弾いたんです。

同じ楽器のはずなのに…

なんて良い音なんだ!

正直、
衝撃や感動、悔しさよりも先に
安心を感じました。

初めて購入した高額な楽器が
まがい物ではなかった!安心!

そして徐々に
楽器が変わったわけじゃないのに…
弾き手が変わっただけなのに…

それだけで、
音がまるで別物になる。

今思えば、
あのとき感じていたのは
音色そのものじゃなくて、

その人が生み出す
「グルーヴ」だったんだと思います。

このとき、
ちゃんと言葉にできていれば
かっこよかったんですが、

当時はただ
「すげえ」と「本物の良い楽器だ」しか
出てきませんでした。

結局、趣味で終わった

その後、19歳で楽器を担いで上京。
ハローワーク通いの末、
今につながる葬儀屋に就職しました。

音楽は、
そのあとも知人や友人と
多少ライブをする程度は続けました。

ただ、それだけです。

かっこいい挫折の物語に
したいところですが、

実際は、生活の中心が
少しずつ仕事に
奪われていっただけでした。

演奏者としては、
プロにはなれませんでした。

これは、
今さら悔しがってもしょうがない話です。
冷静に思い返せば、高校時代から
弾きたくても弾けない曲が多かった
もっと弾くために
必要なもの
才能的なものは見つかりませんでした。

ただ、アラフィフになって、ようやく

高校時代、
誰も教えてくれなかった
「グルーヴ」の意味。

映画を観て、
ジャクソン5(ファイブ)のベースを
勘違いしていたと知った”今日このごろ”

アラフィフになった今、
少しだけ
ほんの少しだけ
わかるようになった気がします。

遅すぎる気もしますが、
まあ、わからないよりはマシです。

最近、言語化できるようになった
ひとつの「グルーヴ」

雑誌でピックアップされた名盤CDの1つで
マリーナ・ショウのアルバム
『Who Is This Bitch, Anyway?』
2曲目
You Taught Me How to Speak in Love
ギター:ラリー・カールトン
ギター:デヴィッド・T・ウォーカー
ベース:チャック・レイニー
ドラム:ハーヴィー・メイソン
これら全部AIに尋ねて全部コピペです。
なんて便利な時代だろう

「なんだか気持ちいい演奏だな」
と思うだけでした。

ところが、
47歳になった今、
ようやく気づいたことがあります。

曲の途中で、
ラリー・カールトンのギターが、

  ギタリスト2名なので、どちらの音か
  確証はありませんが個人的願望として
  ラリー・カールトンであって欲しい

ほんの一瞬だけ
「キッ!」と前へ飛び出す場面があります。

最初は、
ミスタッチかな?
と思うほどの音なんです。

ほんの一音です。

でも、
その一音が入った瞬間、
不思議なくらい
演奏全体が前へ転がり始めるのです。

テンポが速くなったわけでもありません。
誰かが大きな音を
出したわけでもありません。

それなのに、
バンド全体が
生き物のように動き出す。

「ああ、
これがグルーヴなんだ。」

高校時代には
分からなかった言葉の意味が、

30年近く音楽を聴き続けてきて、
ようやく少し分かった気がしました。

葬儀も、同じかもしれない

これは綺麗ごとに聞こえてしまう
かもしれませんが…

葬儀の現場も、
一人では決して
成り立ちません。

司式者、宗教施設、
ご家族、葬儀関連スタッフ、
火葬場の方々——

挙げていくと、
とてもここには
書ききれません。。

それぞれが、
それぞれの持ち場で
息を合わせる。

誰か一人が目立つのではなく、
全体がひとつに
まとまっていく瞬間があります。

演奏者としては
プロになる事はできませんでしたが、

「合わせること」
「支えること」
「グルーヴを生むこと」

これだけは、
音楽から教わりました。

ベースを選んだあの日から、
ずっとそうだったのかもしれません。

目立たない。
でも、いないと成立しない。

  音源やライブ演奏でベースの
  奏でる音をボーカルやギター、
  ドラムのように、しっかり聴き
  取れる人は、それほどいないと
  思います。ベース奏者だった自
  分でさえ聞き取りにくいことは
  多々あります。

でも
ベースは音を止めたら
演奏が止まったら誰もが絶対わかります。

派手さより、
なくてはならない存在で
いたいと思っています。

ジェームス・ジェマーソンだと
思い込んでいたあの曲は、
本当はウィルトン・フェルダーでした。

でも、
それが分かった今となっては、

本当は誰が弾いていたかなんて、
もうどちらでもいい気がしています。

そういう、
細かいことにこだわらないところも、
自分の悪いところであり、
それなりに良いところなのかもしれません。

本当に長々と好き勝手書き連ねました。
最後までお読みいただき
誠にありがとうございました。

       ひらつか葬祭 代表 平塚 篤史

 P.S.
 マリーナ・ショウと迷った
 もう1つの言語化できる「グルーヴ」

 リッキー・リー・ジョーンズの
 デビューアルバム
 「浪漫(Rickie Lee Jones)」の
 1曲目
 「Chuck E.’s in Love(恋するチャック)」

 この曲では
 ボーカル:リッキー・リー・ジョーンズ
 ベース:ウィリー・ウィークス
 ドラム:スティーヴ・ガッド
 ギター:バジー・フェイトン 他
 この時点で鼻息荒くなっています(笑)

 最後大サビに行く前
 ブレイクからのガッドのフィル
 この無音の空間に絶妙にハマる達人技

 それは、
 超絶技巧テクニックを駆使して
 1人が目立つことで
 生まれるものではありません。

 長年の積み重ねた経験
 経験からしか生まれ得ない感受性
 我こそが!の思いの真逆にある没個性

 そんな葬儀屋に、わたしはなりたい。

ひらつか葬祭|東京城南エリア(品川・港・目黒・大田・世田谷)対応
お問い合わせ:LINE公式アカウント・お電話にて承ります

なぜ「平塚葬祭」ではなく、平仮名の「ひらつか葬祭」にしたのか

なぜ「平塚葬祭」ではなく、
平仮名の「ひらつか葬祭」にしたのか

屋号を決めるとき、正直なところ、あまり悩みませんでした。
「ひらつか葬祭」。
ひねりも何もありません。名字に「葬祭」を付けただけです。

ただ一つ、漢字の「平塚」にするか、平仮名の「ひらつか」にするか。そこだけは少し考えました。

私は25年以上、老舗の葬儀屋に勤めてきました。
特にカトリック教会での葬儀は、自分が担当を持ち始めた頃から、長くお付き合いさせていただいています。高輪教会、田園調布教会、そして最近では浅草教会でも、葬儀のお手伝いをさせていただくようになりました。

長くこの仕事を続けていると、不思議なことが起きます。

教会の中で、これまで一度もお話ししたことがない方から、
「平塚さんですよね」
と声をかけていただくことが、少しずつ増えてきたのです。

私としては、「どこで私のことを?」と思うのですが、どうやら葬儀を担当した方や、教会の方々の間で、名前だけが先に伝わっていたようです。

もちろん、有名人になったわけではありません。
ただ、カトリック教会の葬儀に関わる中で、「平塚という人がいる」ということを覚えてくださる方が、少しずつ増えていたのだと思います。

独立を考えたとき、この名前を使わない手はないと思いました。

「ひらつか式典」
「セレモニーひらつか」
そんな名前も考えようと思えば考えられたのかもしれません。

しかし、私自身が「式典」や「セレモニー」という感じでもありません。

それなら、これまで皆さんに呼んでいただいてきた「平塚」と、何をする会社なのかが一目で分かる「葬祭」を、そのまま組み合わせればいい。

そうして「ひらつか葬祭」になりました。

漢字の「平塚」ではなく、平仮名の「ひらつか」にしたのは、初めて見た方にも、迷わずパッと読んでいただけると思ったからです。

妻に言わせると、画数の上でも「ひらつか葬祭」の方がいいそうです。
私は画数のことは、正直よく分かりません。
ただ、妻がそう言うなら、それも悪くないだろうと思っています。

振り返ってみても、大した戦略があったわけではありません。

長年、私の名前を覚え、呼んでくださった方々がいた。
だから、その名前をそのまま看板にしました。

屋号を決めた理由は、本当にそれだけです。

葬儀屋になったのは、ハローワークがきっかけでした。

葬儀屋になったのは、
ハローワークがきっかけでした。

📝 約3,100字  /  ⏰ 読了目安 約7分

19歳、東京へ

19歳のとき、
進路も決まらないまま東京に出てきました。

当時19歳は未成年。
一人暮らしを
するにも親の保証が必要な年齢でした。

何かしたくて、
でも何をしていいかわからなくて。

夢と呼ぶには大げさなのですが、
楽器を弾いて食っていけたら……、

そんな気持ちが、なくはなかった。

今思えば、無理に決まっている。
そもそも歌は苦手だし、
小学校では音楽授業すら嫌いだった。

でもあれが、
若い頃にだれもが一度はやらかす、
盛大なる勘違いというやつだった
のかもしれない。

叶わなかったわけでもなく、
諦めたわけでもなく……
    その話はまたいつか。

ひらつか物語 Part3
ひらつか物語 Part3
好きな曲のベースを、尊敬するベーシストだと30年超、勘違いしていました。

30年以上勘違いしていたベーシストの名前。マイケル・ジャクソンの映画をきっかけに知った真実と、高校時代から追い続けた「グルーヴ」の意味…

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未成年の自分は
東京で一人暮らしをするために、
まず仕事に就く必要がありました。

仕事を探すにも当てがなく、
ハローワークに入り浸っては、
資格条件として
普通免許だけ、給料25万円以上、
その条件を求め、
ひたすらにページをめくり続けました。
※当時は紙ベースで膨大な資料の量でした。

その中から
長年勤める葬儀社に出会うのでした。
そこが今につながる、始まりでした。

当時は
特別な志があったわけではありません。
生活するために、
仕事を選んでいられない。
兎に角、就職。

それが正直なところでした。

「人の役に立ちたい」とか、
「命と向き合いたい」とか、
そういう言葉は、
正直あとからついてきたものでした。

26年間、現場に立ち続けた


それから26年間、
一つの老舗葬儀社で
ひたすら現場に立ち続けました。

当時の葬儀業界は、
今とはまるで違う世界でした。

まだインターネット
などという環境は世の中にはなく、
葬儀コーディネーターなんて言葉もなく、
女性担当者なんてのは、ほぼ皆無。

年齢を重ねた男性だけが活躍できる場でした。

入社当時、会社オーナーに
はっきり言われたことがあります。
「25歳までは
1人で葬儀担当することはないから。」

今思えば、それが業界の常識でした。

来る日も来る日も、
現場では葬儀の設営と撤収、
事務所に戻れば、道具手入れと在庫管理。
当時、今のような花祭壇はまだなく
白木祭壇と呼ばれる神社をそのまま
持ち込んだような大道具で
柱、屋根、輿など1点1点が重くかさばる。

毎回が引っ越しのような肉体労働で、
“スーツを着た、土方(どかた)” とは
実によく言ったものだ。

道具運び専門の自分は、早く
葬儀の担当がしたいと
何度も思いました。
しかし、それは全く叶いませんでした。

もしかして
早く老けることが出来たなら
葬儀担当を任せてもらえるかな?

あと何年くらい、
設営撤収と道具管理をやればいいんだよ。
なんて思いあがったことも
考えてしまったこともありました。

それでも辞めずに続けられたのは、
”黙って耐えてりゃ、いつか報われる”

今となっては絶滅危惧種な
昭和生まれの根拠なき確信。

良くも悪くも、それだけが
自分の支えだったのかもしれません。

それと、
当時のオーナーや
先輩方々にも恵まれていたとも思います。
いろんなことがありましたが
感謝の思いは決して忘れません。

あと、
小学生のころから新聞配達を行うなど、
もともと働くことが好きというか、
働かざる者喰うべからず、 という
完全昭和教育の最先端ともいえる
両親の教育もあってのことと
こころから感謝しています。

本当に自分もある程度の年を重ね、
家庭を持ち、 ようやく
少しだけ わかってきたのかな。
     ——この話、もっと話したい

仏教式のお葬式、
神道式の神葬祭、
カトリック教会の葬儀ミサ、
近年では無宗教式のお別れ会

家族だけの小さなお別れから、
大勢が集まる大規模葬儀、社葬まで。

2000年代、
2010年代、
そして今の2020年代と
実に多種多様の様々な形式の
数えきれないお別れに関わってきました。

続けられた理由を聞かれると、
うまく答えられません。

ただ、現場に立つたびに
「よりうまくできる方法はないか?」と
考えてきたことだけは確かです。

カトリック教会との出会い

ある時期から、
カトリック教会の信徒の方々に
声をかけていただく機会が増えました。

最初はカトリック高輪教会でした。
当時勤めていた職場は五反田にあり、
高輪教会とも比較的近い場所でした。

高輪教会信徒で有志の方が、
信頼し任せられる葬儀社を探し始めた
ことが 全ての始まりの出会いでした。

それから十数年後、
カトリック田園調布教会からも
お声がけいただきました。

自分にとってカトリック教会は
数多くのお別れをともにしてきた場所です。

”高輪” と ”田園調布”
東京に住んでいない方でも
名前を聞いたことがあるような、
品格に溢れ由緒ある土地柄エリアです。

家が大きく、美しく、
洗練されていて、
テレビや映画でしか
みたことないような環境、

岐阜県高山市の 田舎育ちの
自分には本当に驚きの連続でした。
打合せ時に出てくるお菓子ひとつ取っても、
とても美味しそうなのですが
自分はいつも持ち帰るようにしてました。
なぜなら 上品に食べる自信が なかったから。


でも、
それ以上に印象に残っているのは、
人の温かさと面倒見の良さでした。

この2つの教会で
私と関わりのあった方々なくして、
今の自分はなかったと思っています。
本当に感謝しかありません。

お手伝いを始めて数年が経つと、
不思議なことに、
自分では面識のない方から
「平塚さんですよね?」と 名前と顔を
知っていただいていることが、
増えてきました。普段、葬儀の時には
ネームプレートを付けているのですが、
ネームプレートをつけてない時でも
何度もお声掛けいただきました。

きっと紹介が紹介を呼んで、
気づけば名前だけが先に広まったの
だろうと思います。

2020年からは
カトリック浅草教会の
お手伝いも させていただいています。

ご縁は今も続き、
そして今も広がりつづけていると、
そう信じています。

選ばれることの理由はわかりません。

評価は自分でするものではない
と思っています。ただ、呼んでいただける
限り、精一杯やるだけです。

独立、そしてひらつか葬祭へ

2025年2月、
長年お世話になった会社を辞めて独立し、
「ひらつか葬祭」を始めました。

屋号を決めるとき、
おしゃれな横文字の名前も考えました。
でも結局、シンプルな答えに行き着きました。

せっかく覚えて
いただいた名前を、最大限活かしたい。
自分を知ってくださって
いる方々に、迷わず見つけてもらいたい。
分かりやすさに重点を置いた結果が、
「ひらつか葬祭」でした。

我ながら、
なんのひねりもない安直な名前だ
と思っています。
でも、お客様にとって
分かりやすいことが一番だと思っています。

自分のこだわりより、
お客様ファーストでありたい。
その気持ちは、
屋号の付け方にも表れているかもしれません。

漢字ではなく平仮名にしたのも同じ理由です。
初めて見た方にも、
ひと目で「ひらつか」と読んでもらいたかった。
ただ、それだけのことです。

これからも、ともに

カトリック教会での葬儀はもちろん、
仏教式や
近年増加傾向にある無宗教式葬儀など、
どんなお葬式でも、
基本的に最初から最後まで
平塚篤史がお手伝いさせていただきます。

事前相談から葬儀の打合せ、
現場の仕切り、葬儀後のアドバイスまで。
全てをご家族とともに、伴走いたします。

それだけは26年間、変えていません。
ひらつか葬祭でも、それは変わりません。

25年超の経験と、
とどまることなく変化していく時代の流れ。
そして変わることのない人の気持ちを大切に。

その全てをもって、
お客様のお別れをサポートいたします。

大切な人とのお別れに、
後悔があってはいけません。

ご家族のことだけでなく、
ご自身のことでも、どうぞ何でも聞いてください。
不安なまま、一人で抱え込まないでください。

いつでも、お気軽にご相談ください。

ひらつか葬祭 代表 平塚 篤史

 P.S.
 まだ話していないことが、山ほどあります。
 続きは、いつかまた!

ひらつか葬祭|東京城南エリア(品川・港・目黒・大田・世田谷)対応
お問い合わせ:LINE公式アカウント・お電話にて承ります